第2章 10話 悲運の人魚〜人魚の墓〜
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 そっと瞼を持ち上げるとそこは水で満たされていた。ユースは一瞬戸惑い、口元から気泡が零れだした。 だが何か違和感を感じる、水の中だというのにまったく苦しくないのだ。見上げると光を反射してか輝いていた。
(ここは何処……?)
 自分は先ほどまで何をしていたのだろうか、思い出せない。思考は停止しているかのごとく何も定まらなかった。 じっとしていても仕方が無い、そう思い彼女は前を見て歩き出した。水の中だというのに地上と同じように歩ける、不思議だった。
 だが歩いても歩いても景色は何もかわらなった。人の気配すらない、何もない孤独な世界だ。 座り込み目を瞑って考えた。けれど何を考えればいいのかすら解らない。ふと目をあけると周りの景色は変わっていた。 目の前に広がったのはたくさんの十字架――墓に酷似している。まるで自分を囲うかのようにあった。
 ユースは立ち上がりそっと十字架に手で触れようとする。だが触った瞬間それは水に変わってしまった。
 そして今度は急にあたりが真っ暗になる。否、真っ暗になったのではない、自分がさらに水底へ落ちたのだ。
 彼女は見た。水中で静かに眠る人魚を。深いマリンブルーの長い髪はあても無く漂っていた。雪のように白い肌、その首から下げている鍵。見方から色が変わるビリジアンの鱗。
 そして彼女に絡まるかのような赤い物体――血だ。
 ユースはそっと彼女に近づこうとする。だが赤い塊――血がユースを拒絶し攻撃を仕掛ける。 それはユースの体を包みこもうと襲ってきた。
(――これはさっきと同じ?)
 彼女は瞼を持ち上げる前のことを瞬間に思い出した。結界を張っていても防ぎきれなかった血のせいで囚われ意識を失ったはずだった。
「これは……夢?」
 そう言葉を放った時、彼女の胸元のペンダント――封印石が蒼白く光りだした。光は眠った血の塊で眠る人魚を指した。
「封印石のせいなんですね……」
 先ほどの出来事も全ては石の影響のものだと理解したユースはまつ毛をふせた。 何故血が襲ってくるかは分からない。眠る人魚に関係して何かしらの悲劇があったのだ。
 血は容赦なくユースを包み込んだ。意識は段々と遠くなっていく。だが怖いといった感情は生まれてこなかった。
――助け……――


「……ス様、ユース様……ユース様!」
「あっ……」
 アーチェの声でユースは目が覚めた。一気に現実に引き戻された。だが夢は鮮明と覚えている。
「ユース様大丈夫ですか? うなされていたので起こしましたが……」
 たしかに身体は冷や汗をかいており、血の生々しい感触も残っている。
「大丈夫ですよ、ただ夢をみていただけですから」
「半日以上眠られていたので心配しました」
「……アーチェ? どうして泣いているんですか?」
 ぽたぽたと、アーチェの瞳から涙が流れ落ちていた。 彼女は気づいていなかったのか、自身も何故涙を流しているのか分からない様子だった。 自信の主が目覚めたことに安堵して――ではない。
「こ、これは……気にしないで下さい」
 すぐさま涙を拭うが、留めを知らず彼女の意志に反して流れ続けていた。
 ユースはフォールが一冊の本を咥えていることに気が付き、そっと本を手に取った。
「……能力を使ってこの日記の持ち主の記憶を読みとった、……当たりですか?」
 彼女が一瞬震えたのを見逃さなかった。
「私の事を言えませんよ。気をつけていたつもりでしたが……すみません、アーチェ」
 "情報"の能力は本に宿っていただろう"記憶"を写し取ってしまったのだろう。 歴史書のように客観的に綴られた内容のようなものならば感化されることは無い。 日記のように主観的なものには、嬉しかったこともあればきっと辛く、悲しい内容もあったにに違いない。 優しすぎる彼女には耐えきれないのはユース自身解っていた。
「あたしが勝手にやったことです。ユース様がお気になさるようなことではありません。 ……大丈夫です。あたしが視た情報をお伝えします」
 涙は止まったのか、アーチェはいつものような凛とした声で言った。


*…*…*…*…*

 深い青色の水の中でも太陽の光は微力ながらも確かに届いていた。レウィーナの尾ひれが降り注ぐ光によって、極彩色の輝きを見せていた。 視界全体に青みがかかったかのように水中は美しい。珊瑚礁が並ぶ洞窟を抜け、彼らは目的地――人魚の墓――にたどり着いた。
「ここが……人魚の墓」
 深海に並ぶ十字架は一つだけではない、何十と真新しい十字架がそこにある。 レウィーナは一つに手をあて、じっと見つめた。刻まれた名前の数々を見るだけで胸が痛かった。 三人は黙祷を捧げた。
「鱗族の中でも私たち――人魚は少ないの。……ここにある殆どはある事件で亡くなったの」
 静まり返った雰囲気を打ち破るように彼女は声を発した。
「……昔、鱗族は水中ではなく地上に住んでいたの。サウリースのすぐ近くに"水上都市"として栄えていたんだって。 人間とは条約を結んでいた。……不侵略条約っていうのかな、侵略と干渉をせずに互いを尊重しあう、そんな感じのことを。 でもね、欲をかいた人間はそれを犯してしまった」
 レウィーナは話を続けながら十字架の前で祈りをささげた。
「"不老不死"だからか? 前に聞いたことがあるんだ、ある異種族は不老不死だって。それが……鱗族?」
 ジルハが言い放った"不老不死"という言葉に彼女は首を振った。
「違うわ、不老不死なんてこの世にはない。いつか命は消えるわ。でも事件の始まりはそれよ」
「鱗族は人に比べれば長命だから誤解はされやすいけれど……昔、人魚の血から作られる薬があったの。 それが人と人の間を渡って"不老不死"になれる薬という誤解をうけた」
 ヴァンはふと、人魚の肉を食べた女が何百年と生きたというお伽噺を思い出した。 幼い時に読んだ自分でさえ、"そんなわけがない"と笑い飛ばしていたが、人魚の"肉"、"血"にしろ、それを真に受ける人もいたのだろう。
「その薬を作り出すために、多くの人魚が殺された。でも薬を作る技術を鱗族は等に失っていたの。もちろん人もそんな技術は持っていない。 それに血はそのまま飲めば猛毒になり命を落とす。人間も死んだの……人魚と同じくらいに。そして鱗族は水上から水中へと移動した」
 血――それが波紋を投じ、人を殺したのだ。 人が行った行為、それは決して許されることは無いだろう。 それだとして何故レウィーナが"人"である自分達にここまで接してくれるのかわからない。 だがヴァンの詮索をよそに彼女は話を続けた。
「人の干渉を受けない場所――それが水中庭園。けれど、四年前に悲劇は繰り返された。 ……ある若い人魚たちがサウリースへあがっていった。そして彼女たちは歴史を顧みない者達によって殺された。 だが人間たちは薬を作る方法がわからず、彼女たちの死体を海に捨てたの。……ひどい話でしょう?」
 サウリースの人間は過ちを繰り返した。時が過ぎてなにもかもが風化したわけではない。忘れてはならない過去もあるのに――
「もしかしてあの血の波は――」
「そう、当たりよ。……彼女たちの血は怨念の塊となってあの島だけを襲う、意志を持った血の塊……私たちはそう考えているの」
 だから街の瓦礫はほんのりと赤く染まっていたのだろう。全ての幕を上げたのも下げたのも血だった。 レウィーナはその四年前に陸に上がったのだろうか、そう考えると胸が痛い。長い沈黙の後それを破るかのようにヴァンは言葉を放った。
「……四年前に死んだ人魚たちの墓はみんなここにあるのか?」
「ええ、……でもね一人だけないの。一生懸命探したわ。でもどこにもいなかった……」
 レウィーナは上を見上げた。上の世界、太陽の光が微少な海に住む者の憧れ――地上を。
「その子、わたしの親友だったの。一緒に行ってわたしだけが帰ってきてしまった……あの時を思うたびに悔やんでる」
「……その事件を機にあの波が現れた、その前は何も起こらなかった」
 ジルハの言葉には何か確信があるのは解った。
「その通り。その前まではそんなことはなかった……」
(共鳴もしていたから間違いは無い、か……)
 ジルハが何か言いかけようとしたとき頭上が急に暗くなった。微小に届く太陽の光が遮られたからだ。 その遮ったものは赤い物体――血だ。水に混ざらないそれは頭上で止まり、まるでこちらを見ているようだった。
 そして前振りもなく血が無数に飛び散り、弾丸のようになってレウィーナだけを襲った。
  「……っ! これはあの島だけを襲うんじゃなかったのか!?」
 ヴァンが叫ぶ。血の弾丸の一つが彼女の肩をかすめる。水に溶け込まない血は、血の塊へと戻りまた彼女に浴びせる。 彼女の肩から流れる血でさえも塊へと吸い込まれていた。
「わたしだけを狙ってるなら……――」
 レウィーナは身を翻すと尾ひれで水を打ち二人とは逆の方へと猛スピードで泳いでいった。 同時に血の塊も彼女を追った。
「おい、レウィーナ!」
「二人は水中庭園に戻ってて!」
 聞こえた彼女の声でさえ、大分遠かった。 海の中を歩いてきたヴァンたちにとって、"人魚"の姿のレウィーナに追いつくわけもなく彼女の姿は遠退いていった。
「なんでレウィーナだけが?」
「封印石の欠片が影響して遺志を持っている…… あの血の塊が人魚の血そのものなら一緒に地上に上がった人魚たちのものだろう。 だからまだレウィーナも島にいるんだと勘違いをしていたとしたら……島を襲っていたんじゃない。レウィーナを襲っていたんだ」
 (わたしだけ帰ってきてしまった)
 彼女の言葉がふとヴァンの頭をよぎった。 ジルハは欠片が血の塊に影響していると言った。 だが欠片の力が人魚の血の塊だけではなく、レウィーナの負の念に影響しているのならば――
「……ジルハ、追いかけるぞ!」
 彼女もどこかで自分も"ああなればよかった"と思っているのかもしれない、そうなれば彼女を襲う理由にも説明がついた。
「誰に命令してんだアホ。……行くに決まってる」
 追いかけなければならない状況でも言葉にかちんとくる。だがすこしだけ緊張がほぐれた(ような)気がした。
「……このチビがっ! あとでそんな口利かせないようにしてやる!」


   二人から大分離れ、レウィーナはくるっと向きを変えた。すると追っていた血の塊も止まった。 既に血の弾丸を放つことは無く、ただレウィーナの様子をうかがっているかのように思えた。
「わたしに……何か用があるの?」
 恐るおそる彼女は問いかけてみた。喋るわけがない、そうは思っていてもこの血は遺志を持っている。
 ふうっと息を吐き瞼を伏せると急に視界が蒼白い光に包まれた。 直ぐに顔をあげると、目に映る景色が歪みはじめた――否、血が変形し始めた。 ボコボコと音をたてながら、血の塊の中から一人の少女が現れた。
 深いマリンブルーの長い髪が水でたなびき、血の気がなく雪のように白い肌。 首から下げている鍵、見方から色が変わるビリジアンの鱗。目を閉じた少女、その全身には血が取り巻く。
 がくがくと全身が震えるのがわかった。少女の姿、見覚えある姿をレウィーナはよく知っていた。
「あっ……アイファ。なんで……どうして!?」
 少女は薄らに目を開けた。緑に青みがかかった瞳、その容貌は美しく儚かった。 そして片手を振り上げた。すると血が無数に飛び散りレウィーナを襲ってきた。 一瞬の動作が遅れ、嗟に両腕で顔を防護するが血の弾丸が襲った。 腕、尾ひれ等から流れる鮮やかな血はまた血の塊へと吸い込まれていく。
「ど……どうして――」
 彼女――アイファはなにも答えなかった。その目は虚ろで、レウィーナと視線が合うはずもなくどこか遠くを見つめいていた。
 ぎゅっと手のひらを握り、叫んだ。
「あなた……死んだはずじゃなかったの!?」
 ずっと探していた親友が何故ここにいるのだろう。困惑するばかりだ。死んだと思っていた彼女が生きている、だったらなぜ何も答えてくれないのだろう。 募っていた思いが言葉になって出てくる。けれど彼女には届かないのだろうか。だが意識が段々朦朧としてくる。 血を流しすぎたのだろうか、視界はぼやけ彼女の姿すら見えない。目を瞑る瞬間に見えたのは自分を覆うほどの激しい炎だった。

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