第2章 12話 悲運の人魚〜優しい決意〜
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 夜の海は暗く、冷たく、月の光が幽かに見えた。まだ自分が生きていたことに彼女――アイファは気づいた。 人間達は用済みの人魚を海に捨てたのだろうか。水が気持ち良い、やはり還るべき場所は海であり地上ではなかったのだ。
(レウィ―は逃げられたかな)
 遠のいていく意識の中で大好きな親友のことを思った。 彼女の最後の顔が離れない。全ては地上に促した自分に責任があった。 昔とは違う、そう言い聞かせて他の人魚たちと地上に上がった。
 人魚の回復力でも、時間がなければ傷は治らない――もう手遅れだった。 身をよじり下げていた鍵を力なく握りしめた。
(約束したのにな……)
 親友の恋人の最後の願いはこのまま海の彼方に消えてしまうのだろう。
 海の色が自分の血で濁る――他の人魚たちの死体も同様だった。 美しい青は、地上に魅せられ禁を犯した赤へと変わっていく。 最後ならば青く澄んだ色が見たかった。
(――守れなくてごめんね)
彼女は目を閉じた。もう二度と目をあけることは無いだろうと――そう思っていた。
ゆっくりと彼女の身体は海の底へとたどり着いた。そして蒼白い光が彼女たちを包んでいた。

*…*…*…*…*

 身体に絡まった物体が彼女を取り巻いていた。 鮮やか過ぎるほどの赤――血は海に溶けることはない。
「封印石のせいなのか……」
 ヴァンは犠牲となった少女を痛々しくて見ていられなかった。青白い身体、それは死を意味している。 彼女の鱗レウィーナのものに比べ、?がれ落ちぼろぼろになっている。 瞳からは血の涙が一筋流れる。悲しいのか、それとも憎いのかはわからない。 その血は水にとけることなく水中を漂い、睨んだ先のレウィーナのほうへ浮遊する。
「アイファ……来たわ」
 レウィーナはもう一度彼女の名を呼んだ。哀しみが増したこの感情だけが貫き彼女は俯いた。 アイファの姿自体に憎しみが宿り、今はそれだけが彼女を動かしている。 封印石の力がそれを増幅させてしまったのだろうか。 それがあの血波が生まれてしまった。もうあの少女ではないのだろう。
「……封印石を回収します」
 確信めいたその言葉を発すると同時にアーチェは腰布を探り、短剣を取り出した。 銀色に鈍く光った刃をアイファへと向ける。
「待ってください。……まだ手は出さないでください」
「ユース様……しかし、あれでは――」
 見ているこちらの方が苦しかった。欠片さえ回収してしまえば終わるのだ。 だがユースはそれを拒んだ。
「アイファさんと封印石が溶け込みすぎています。まさか欠片に死体を動かす力があるとは思いませんでした。 無理に回収しようとすれば地上で起きたことの二の舞になります」
 ユース自身苛立たしかった。自分の一族の護っていた石がここまでのことを引き起こす。 本来なら自分でやらねばならないことだ。けれどこれ以上は踏み込めなかった。
「大丈夫よ」
 レウィーナはユースの顔を見て言った。悲しそうな笑みの中には決意した瞳があった。
「これはわたしの――鱗族の問題よ。お願い、わたしに任せて」
 種族間の問題に他人は不要なのだ。たとえその引き金を引いたのが他人だとしても――
 レウィーナはきゅっと前を見据えた。彼女は何も躊躇い無くアイファに近づいていった。
「ごめんね……あの時わたしは何も護れなかった。彼さえも……護れなかった。 ただ逃げる事しかできなくて、一人だけ戻ったわ」
 彼女は振り向く事はなく、ただアイファへと近づいていった。 顔を見ることはできないがその震えた言葉からレウィーナは泣いていることがヴァンにはわかった。 だがアイファは睨みつけたまま片手を振り上げた。それと同時に血が無数に飛び散りレウィーナを襲った。 前と同じようにその瞳に感情は表れていない。何かに操られているかのように―― ユースは水の膜の上から結界を張った。蒼白の光が覆い、血の弾丸ははじかれる。 だが離れたレウィーナにまで結界を張るほどの力は今の彼女には残っていなかった。
「レウィーナ!」
 ジルハが彼女を呼び止めようと叫んだ。もう誰も自分の前で亡くなってほしくない。 そんな思いが言葉からヴァンにと伝わる。ジルハは一番死を恐れているのかもしれない。
 だが血の弾丸は容赦なく襲ってくる。
「平気……あなたがわたしに死んでというのならいいわ。あなたが死んだのはわたしのせいだもんね」
 両腕を前にかかげながらも彼女に近づいていった。包帯が破れ傷にも容赦なく襲い続ける。 だがレウィーナは進み続けた。少しずつ後ず去っていくアイファを追う。血の弾丸の激しさは徐々におさまっていく。瞳には微かだが表情が出始めたからだ。
「大丈夫……わたしは……」
 そしてレウィーナはアイファを強く抱きしめた。血が通っていない冷たい体に改めて彼女の死を実感したような気がした。 耳元でそっとアイファに言葉を告げる。それは今まで伝えることができなかった言葉でもあった。
「レ……ウィー……」
 告げた言葉に反応したのか、アイファの口がはじめて動いた。その小さな自分を呼ぶ声をレウィーナは確かにしっかりと聞き取った。 血の涙は次第に透明に変化し、瞳はまっすぐとレウィーナの顔を写している。
「アイファ……」
 弾丸の勢いは止まり、血の塊はその場から急に弾け飛んだ。海の水と交わることの無かった血はゆっくりと溶け込み始めた。 同時に、額に埋め込まれた封印石が蒼白く光り輝いた。欠片はがれその場に落ちると同時にアイファの身体は少しずつ水へと溶けていく。 その表情に憎しみはなく笑顔で満ちていた。彼女は最後にレウィーナにしか聞こえないような声でそっと呟いた。 レウィーナはその言葉を聞くと涙を流しながらも笑みを浮かべた。 アイファの身体は消え、彼女がつけていた鍵と欠片だけが残った。
「なんで……元に戻ったんだ?」
「多分、レウィーナの"思い"の力のほうが強かったんじゃないでしょうか」
 ヴァンの問いに返答するとユースはそっと立ち上がった。すこしふらつきながらもレウィーナのほうに近づくと封印石の欠片を拾い上げた。 小さな欠片だけでもこのような事態を引き起こしてしまった禍々しい存在を――彼女はレウィーナに近づくと慰めるかのように触れるように肩を叩いた。
「アイファさん、ちゃんと天にいけましたね……」
「うん……そうだといいな……」
 一緒の人界ではないけれど天界に彼女はいけた。そう信じていたかった。
 人魚たちの血は海に溶け込み一つとなった。彼らはやっと還ることが出来たのだ。
 レウィーナは足元に落ちている鍵型を拾った。 彼の日記の鍵を何故アイファがもっているかはわからないままだったが得たものは大きかった。 それを抱きしめながらまた涙を流した。 残された傷跡は大きくても何時かは癒える。一粒の綺麗な涙が鍵に跡を残した。

*…*…*…*…*

 もう島を血波が襲うことはない。 だがいつか沈んでしまうだろう島、解決しても人が戻ってくるわけではない。 封印石がもたらした被害は甚大だ。だが過去を振り返っても何も戻りはしなかった。
「非科学的なことは嫌いだけどさ……あの日記にも何かの力が働いていたんだろ?」
 血波に襲われても濡れることなく、保ち続けた日記帳はヴァンにとってある意味恐ろしかった。 まだ封印石の力で、と言われた方が納得しやすい。
「そうなんでしょうね。私の推測ですがやっぱり日記帳の主の――」
「最後まで言わなくてもいいよ……」
 ヴァンは耳をふさいだ。
「それだけ強い"思い"があったんでしょうね。その主がレウィーナにそれほどまで伝えたかった言葉って何だったんでしょうね」
「……俺も最後のページは見たけどさ、俺の知ってる古代文字じゃなかった。やっぱりそれはそれは聞かないと駄目だろうな」
 アーチェは黙っていた。彼女が"情報"として抜き出した言葉でさえ意味がわからず、やはりそれはレウィーナにしか解らないのだろう。 あの文字も全て彼女のものであり、第三者が全てを抜き出すことなど不可能なのだ。
 彼女はふうっと溜息をつき瞳を閉じた。
「でもさ、なんでレウィーナまで旅についてくることになってんだ?」
 調子のよい声でヴァンはユースに面と向かって言った。 蒼い光から生み出される飛空艇は段々と出来上がっていく。 不思議としかいえない状況だが彼女にとっては簡単なことだ。
「何故って言われましても……封印石のことを教えたら一緒に行きたいと言われましたので」
 事件が一段落ついたものの、関わっていたものを教えないのも悪いと思いレウィーナに"封印石"の事を彼女は話した。 責められることを覚悟していたが、レウィーナは何も責めなかった。ただ一緒に行きたいと願い、彼女はそれを了承したのだ。
「……ヴァンがいうことはないと思うけれど? あんただって成り行きのようなものでしょう」
 アーチェは飽きれたようにさらっと言った。その言葉にヴァンはぎくりとした。
「なっ! 別に、今は関係ねーだろ!」
「図星か……」
 アーチェがそういうとユースは笑った。自分より年上はずの彼の子供っぽい部分は真似をしてみたいものだ。 そのせいかヴァンの顔が一気に赤面し、踵を返し走っていった。
「ヴァンさん! そろそろ出発しますからジルハとレウィーナを呼んできてくださいね」
 聞こえたかどうかはわからないが彼ならきっと呼んでくるだろうと彼女は信じた。 くすくすと笑いながらも飛空艇は完成した。
「次はどちらへ向かわれますか? またリアズ大陸へ戻ります?」
「そうですね……"グリエット大陸"に行きます」
 人界の四大陸――リアズ・グリエット・ガリア・ラシャ、ユースが巡っていないのはそのグリエット大陸だけだった。
「……了解しました。ユース様がそう望むのなら覚悟を決めましょう」
 その大陸に何があるのかわかったかのようにアーチェはそっと瞼を閉じた。

*…*…*…*…*

「一緒に来てどうする?」
 ジルハがレウィーナに問いた。彼女は何が目的で着いていくつもりなのか知りたかった。 海からあがったレウィーナの髪は短く切ってあり、以前の彼女とは違う雰囲気がしていた。薄藍の髪が風でたなびいた。彼女はジルハの言葉をきくと笑った。
「そうだなぁ……とにかく色んなところを回ってみようと思って」
 自分は何も知らなかった。鱗族のことしかわからない。だから世界を見るにはいい機会なのだ。
「――って言っても、今回のことを蒼海にいる鱗族に伝える任を頼まれたの。だからついでにって感じかな?」
 彼女は島から見えるかつては水上都市があった場所を見た。しばらくは戻ってこれない、その景色を瞳に焼き付けたかった。
「それに今回のことで迷惑掛けたし、……わたしは封印石のことを見届けたいわ。借りを返す意味でもね」
「だったらレウィーナ――」
「……レウィーナ、じゃなくて"レウィー"のほうがいいな?」
 ジルハの言葉を閉ざしレウィーナはそう笑いながら言った。今まで呼ばれていた名――そう呼ばれるのが怖かった。 だが今は違った。乗り越えていくことができることを知った。 澄み切った海は美しく、珊瑚礁の残骸ですら愛おしい。ふと瞳を細めると思い出の場所には誰かがいる気がした。自分に向かった微笑んでいるかのように――
「……一つだけ聞きたいんだ。あのときアイファさんは最後に何を言った?」
「それは秘密」
 その言葉にジルハはムッとしたが、それだけは話せなかった。その言葉は自分のものであり、誰にも教えるつもりはなかった。 砂浜を一歩ずつ歩く。波が足跡を消した。いつかこの島もなくなるのだろう。思い出と共に――そう考えると彼女は虚しくなり俯いた。 アイファも海に溶け還って行った。唯一残ったのは首から提げてる鍵のみだ。
 もとは彼の日記の鍵、それを何故彼女が持っていたのかは最後まで解らなかったが大切なものに変わりは無いのだ。
「おい、お前らそろそろだってさ」
 沈黙を破るかのようにヴァンの言葉が響く。それに答えるかのようにジルハは走った。フォールが彼の肩に乗り、長い尻尾がゆれていた。
 レウィーナは空を見上げた。海と同じように澄み切った空には雲ひとつなかった。彼女はふとアイファに告げた最後の言葉を口にした。
「大好きだよ」
 その言葉は確かに彼女に届いた。そう信じたかった。
 持ち出すものは鍵と日記帳、それだけでいい。それ以外はまた新しく作っていけばいい。
 レウィーナは遅れながらも走り出した。その瞳には何か決意したかのように、空に彼女の姿を重ね言葉を思い出した。最後にくれた優しい言葉を。


――レウィー、大好きだよ。だから幸せになってね

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