幼い少年は姉に手を引っ張られながら逃げていた。
 本の数時間前までいつものように起き、食事をし、帰ってきていた姉と共に庭を散歩している矢先に事は起きた。
 何も解らぬうちに爆発音とともに火花が上がり建物は崩れていった。少年が悲鳴を上げるや否や、彼の姉は手を引き走りだした。だが、広い敷地を脱することは中々出来なかった。頭上を黒い物質がいくつも飛んでいく。それが建物に当たると火を噴き上げる。倒壊した場所に転がっていたのは城に仕える女官達の死体だった。一瞬で命を奪われたのだろうか、腕が不自然に曲がったまま硬直していた。
 少年はそこで初めて死を知った。
 焼け焦げた臭いが辺りに充満し胃がねじきれそうだったが二人は走り続けていた。
「ねっ……姉様、父様と……母様は?」
「――っ、今は逃げるのよ」
 姉はそれ以上答えなかった。姉の辛そうな顔を少年はこれ以上目を向けられず睫を伏せた。
 崩れた門をやっとのこと抜けても二人は走り続けた。市街地も爆発を受けたのか荒れ果てた地となっていた。爆弾が空から落ちたかのようで、そこには人の気配すらなかった。
 その光景に姉は足を止めた。何が起きているのか解っていない少年は愕然とした姉の名を呼んだ。だが気づいていないのか、応えることなく彼女はその場に座りこんでしまった。
「……レジスタンスがここまでするなんて――」
 レジスタンス、少年はその単語を耳にしたことが一度だけあった。数日前、父に連れられ向かった王宮の地下でその言葉を聞いた。 反抗勢力――レジスタンスと国王軍は争っている、そう彼は聞いた。原因は聞いても解らないものだったが、国を揺るがす存在だということを彼は知っていた。
 呆然としている姉をよそに、彼は辺りを少し周った。国民の死体が人形のようで現実味がなかった。知り合いは城の外にはいない、だが死は哀しすぎた。異臭、そしてくすぶった焔、それらが国を汚していった。彼は崩れた建物に触った。すぐにボロっと壊れる脆いものでもない筈なのに――
 彼はふと耳を澄ますとがやがやと声が幾つも聞こえた。――国王軍だろうかと彼は思い、姉の元に駆けていった。
「姉様、姉様! 向こうに人がいるみたいです!」
「えっ……ジルハ、来て」
 姉は驚いた表情を少年――ジルハに見せたあと立ち上がりそう言うと、また彼の手を引っ張り走った。彼は何故また逃げているのか解らなかった。人がいるなら助けを求めれば良いのではないか――
 二人は走り続けたが逆に声が大きくなっていることに気がついた。いつの間にか声のする方向に来てしまったらしい。
 姉は足を止め辺りを見回した。崩れた建物の隙間が、人が入れるか程度空いているのに気がつくと彼女はぐっと息を飲み覚悟を決めた。
「ジルハ、ここに隠れなさい」
「えっ……何で――」
「いいから早く!」
 姉の怒鳴り声など聞いたことがなかったジルハは身を震わした。それに気付いた姉は少年をぎゅっと抱き締めた。
「お願い……ジルハ約束して。ここに入ったら何があっても声を出さないで」
「姉様……姉様は?」
 彼は独りになるのが怖かった。唯一知る人物は辺りに姉しかいなかったからだろう。まだ幼く意味が解らずとも、姉の言うことは聞くべきなのだろうと思っていた。
「私は入れないの……でも貴方なら入れるわ。姉様のお願いきける?」
「うん……」
「約束してくれる?」
「……うん」
 返事をすると姉はジルハの頬にキスをした。
 少年が隙間の中に入ろうとした最中、荒々しい声――何人もの声が近付いた。姉はジルハを急かし隙間の奥へと押し込めた。
 ジルハが入り込んだのを確認すると姉は安堵の声を漏らした。だが少年は姉が心配でならなかった。
「姉様……」
「喋ってはだめ……ジルハ、大好きよ」
 そう言うと姉は瓦礫の隙間を出来るだけ小さくしようと周りの瓦礫を置いた。少年の視界は小さくなった。見えるのは僅かな姉の姿だった。
 そして姉はくるっと反対を向いた。ジルハはそれを黙ってみることしか出来なかった。
 向いた先には既に何人もの人――服装が国民のものとは違いいかつい甲冑をつけたレジスタンスがいた。その中心にいたまだ若そうな男が口を開いた。
「エクシード王家の姫……で間違いないな」
「ええ」
 姉――姫は凛とした声で答えた。ドレスが砂で汚れようと、走り続けて出来た傷が痛もうが真っ直ぐな声だった。
「王子はどうした?」
「ジルハは城よ? ……ここまで国を荒らしておきながら何か用ですか?」
 ジルハは震えていた。姉と約束した通り声を出さないよう必死に唇を噛んだ。何故姉は嘘をついているのだろうか、怖い、恐い――
「ならば生きてはいないな」
「……何故罪無き民を殺したのです? 国が気に入らないならば他国へ行けばよろしいでしょう」
 ジルハは姉の声が震えているのに気が付いた。姉も恐いのだろうか、それとも怒りで震えているのかは解らなかった。
「城でぬくぬくと生きていた奴が口を叩くな! 王家は……殺す!」
 次の瞬間ジルハの目の前が赤く染まった。姉の身体から血が吹き出していた。肩から胸にかけてざっくりと斬られたのだ。彼女はその場にゆっくりと倒れこんだ。
 姉を斬りつけた刃から血が糸のようにひき、斬った男はその血を払う。
 死――目の前で姉が死んだ。声を必死に殺しジルハは泣いた。涙は止まらなかった。
 レジスタンス達は姫の亡骸など目もくれずジルハのいる瓦礫近くへと近付いた。
「っ――」
 声にならないほどの痛みが彼を襲う。左腕の上に瓦礫が降り潰したのだ。隠れている上にレジスタンスが登ったのだろう。彼は重みに耐えられなかった。だが声は出せない。更に運悪く倒壊した建物の窓であっただろう大きな硝子が左腕に突き刺さった。
 激痛が走った。左手、腕の感覚が身体から切り離された。声を出さないと言った約束を守ることすら忘れジルハは悲鳴を上げた。何度も何度も――
 足音がまた近づく。少年は自分の死が目前に迫っているのを感じた。このまま絶えていくのか、レジスタンスに見付かるか――答えはどちらも同じだった。身体の真が熱くなり、彼の意識は飛んだ。

*
「姉様!」
 幼い少年は必死に走って姉に駆け寄った。頭を撫で、姉は彼を抱き締めた。
「ジルハ……久しぶり!」
「姉様はいつ戻られたのですか?」
「つい先程よ。けれどまた行かないとね」
 その言葉を聞くとジルハはしゅんっとした。姉と離れるのが嫌なのかしょんぼりしている。
「この国はいずれ争いが起きる……それまではジルハの側にいるわ」
「本当ですか!」
「ええ、あと少しで秋の砂祭ね。その日は一緒に行きましょう」
「はい! 姉様は秋が好きですか?」
 その問いに姉はにっこりと微笑んだ。
「ええ、季節だったら秋が一番好きよ」

*
 幸せな夢をみた。昨日の幸せな時間の夢。だが目を開けた先は地獄だった。
 何故――自分は生きているのだろうか。両親も姉も誰もいない。あまつさえ左腕は無くなってしまったのに何故生きているのだろうか。まだぼたぼたと止まることをしらない血、痛みのせいで頭が働かない。
 そして自分の周りに転がっているのは何なのか。くすんで乾いた血溜まりが幾百と取り囲むようにあった。奮えている右手は何故赤く染まっているのか彼は解らなかった。否、理解したくなかった。 無数に転がっている死体――先ほどのレジスタンス達だった。
 無意識のうちに何をしていたのか、ジルハは想像したくなどなかった。
 姉がいない。姉の――亡骸はどこにあるのだろうか。
 少年はふらっとしながらも立ち上がりゆっくりと歩いた。姉を探して。血を転々と残しながら、少年は大分歩いた。そして見つけた。
「姉……さ――」
 ジルハは姉を見下ろした。綺麗な顔をしていた。目尻には涙が貯まっていた。もう時は戻らない。いつものように名前を呼んでくれない。涙が溢れだすと同じに彼はその場に倒れこんだ。
 行き場のない姉の手をそっと握りながら。
 ――今……姉様の側に……
 消えていく意識の中、また身体の真が熱くなった。血が煮えたぎるように――

*
 少年はゆっくりと目を覚ました。向けた視線の先には横たわった冷たい姉がいた。
 ――まだ生きている。何故姉の元へ行けないのかと嘆いた。
「痛くない……」
 左腕は血が止まっており傷口は不思議なことにない。左腕は半分以上無くなってはいるが――生きている。
「ピュゥ?」
 鳴き声の先に居たのは紅石を額に宿した薄いクリーム色の生き物――龍だった。
 ジルハは以前教わった羽翼族の中で興味をそそる生き物がいたことを思いだした。
 再生の力をもつ羽翼族最高種――龍族、たしかにそのものだった。
 あの傷で生きているわけがない――自分を助けた、再生の力を使ってお前は助けたのか。
「お前……名前あるの?」
 小さな龍は可愛らしい声で鳴いた。言葉が通じているのかはよく解らないが首を横にふった。
「なら……僕がつけてあげる。……秋――"フォール"、お前はフォールだよ」
 それは姉が一番好きだった季節の名前。姉との叶わぬ約束の名――青い葉が落ちる。それは青い葉が黄金へ染まる前に散っていった姉への弔いの証。秋は目の前にあったはずだったのに――
 生きたくなどなかった。何故龍は自分を助けたのかなど――知りたくなかった。
 怒りの矛先、憎しみ、それだけで彼の瞳は燃え盛った。